「想定しない音」に気になる

「想定しない音」に気になる。

例えばファミレスやファストフード店に行くと、他の客が騒がしく話す声や、ゴミ箱のフタががちゃがちゃいう音、店員が階段をのぼる音、ちょっと古い音楽、いすをひく音など、こういった音には気にならない。ただ、そこで自分が無意識に「想定してない、期待していない」音には気になっていらいらする。例えば隣のおっさんがプラスチックのかばんをがちゃがちゃしてる音とか、落ち着きないおっさんの奏でる踵のミュージックなど。この「想定していない、期待していない」幅が狭ければ狭いほど人は、つまり色々と想定できてまぁええかと言える人は許容範囲が広いのかとふと思った日。無意識に想定しているから困る。その無意識の線引きはどこでなされるんだろ。

居場所

 

居場所とは何か、自分にとって家とは何かを考えるといつもこうやって、形のないものを書き出したくなる。「自分を理解してくれる仲間」であったり、でもそもそもその理解してくれる「自分」ってなんだ、であったり、都合の良いよーに取り繕ってる自分ってことじゃねぇの、だったり。いろいろ考えて結局、居場所は自分自身の中に求めろ、という結論になる。そうするとどこへでも行けるから。場所や人に、大切であると自分が思っている人にすらとらわれなくなるから、それが自分の本当の「居場所」だと。でもそこまでいって、それは行き過ぎじゃね、と思い始める。「居場所」ってものは自分自身の中に居場所があって初めて他人や場所に求められるものなんじゃね、とかそんな大原則みたいなことに気づいていなかった自分に気づくわけ。考えていくと、居場所って場所じゃなく人なのだと気づく。何でも受け入れることか、試すことか、踏ん張ることか、安らぐことか、厳しいことか、おそらく全てが混じってごちゃごちゃになった空間。自分の居場所ってどこだろう。